これは、ある捻くれ者の独身女性の、コーヒーをめぐって起こる心境の変化を描いたノンフィクション作品である。

私はコーヒーが嫌いだった。飲むと気分が悪くなった。味とかじゃない。存在が嫌いだった。時間をつぶすための道具だ。ものごとをおしゃれに切り取るための道具だ。あるいはファッションの一部。誰もが当たり前のようにコーヒーで自分を飾っている。嫌いだった。そもそも、苦いでしょう。どうせ我慢して飲んでいるのでしょう。みんな高校生のころはコカ・コーラとか小岩井のジュースとか、ビタミン炭酸matchとか、そういうのを自販機で買っていたでしょう。大学生になったとたんカフェでコーヒー、勉強のおともにコーヒー、読書の片手間にコーヒー。コーヒーの嗜み方を習う講義があったのだろうか。私はひとりで履修登録を間違えてしまったのだろうか。あなたたちがついこの間まで嬉しそうにちびちびすすっていたLiptonのわけわからんフレーバーティーはどうした。私は同級生にGREEN DA・KA・RAをぶっかけつつ、やっとの思いで大学を卒業した。しかし、いやはや、コーヒーを提供する図書館までできてしまった。何を考えているのだろうか。もう手遅れだった。仕事に就いたら全員コーヒー大好き人間になっていて、全員コーヒー大好きクラブに所属していた。
会社の先輩が言っていた。「あたしスタバのコーヒーはおいしくないと思う。薄くて」
そりゃあな。当たり前でしょう。スタバで一番おいしいのはマンゴーパッションティーフラペチーノなので。それでも付き合いで強制的にコーヒーを飲まなければならないことはある。その後しばらくすると、いつも吐き気がしてくるのであった。苦痛だった。

私はなんでも批判してかかる傾向があるが、好奇心もまた旺盛であった。ある日私は、実態も知らずに否定していては誠実ではないと考え、コーヒーにちゃんと向き合ってみようと考えた。駅のカフェでコーヒーを注文する。席につく。コーヒーを一口すする。眼鏡のレンズがじんわりと曇った。カップにうっすらとピンク色の口紅が乗り移る。さて、ここからどうしてよいかわからない。私はとりあえず、鞄からドストエフスキーの『地下室の手記』(新潮文庫)を取り出し、適当なページを開く。この空間において、自分が浮いていないか不安で仕方なかった。それと同時に、マグカップを傍らに、とんでもなく薄っぺらいパソコンのキーボードをぺしゃぺしゃと弾いているような人たちを、私は心の中で見下していた。だんだんと気分が悪くなってくる。まさに“自意識過剰”であった。そして事件は起きた。コーヒーを口にしてからきっかり2時間後、耐え難い吐き気に襲われる。トイレに駆け込むと、間一髪、便器に胃の中のすべてのものを嘔吐した。マジか、と思った。今まで、コーヒーを飲んだ後、なんとなく気持ち悪くなることがあっても、吐いたことはなかった。自分で言うのもなんだが私はひねくれているだけだと思っていた。コーヒーが嫌いすぎて、アレルギー反応“のようなもの”がたまたま現れているのだ。やはりコーヒーはよくないものだ。吐いた後にはすっかり気分は良くなった。あまり深く考えずカフェをあとにしたのだった。
しかし、それは再び起こった。改めてもう一度コーヒーを飲みに来たその日にも、同じくコーヒーを飲んでからしばらく時間が経って吐き気が訪れる。何かがおかしい気がする。いや、確実におかしいことが起こっている。これが正常なわけがない。結局この時もまた、トイレで嘔吐をした。私の頭にひとつの考えが浮かぶ。これはアレルギー反応“のようなもの”ではなく、アレルギー反応そのものなのではないか。もしそうであれば、今までコーヒーを飲むたびに気分が悪くなっていたことにも納得がいく。

「カフェイン不耐症による症状と言えます」
そして後日、私はアレルギー科を訪ねることになる。カフェイン摂取後に体調不良を起こす人は、日本人にはそこそこ多いそうだ。ネットで検索すると『コーヒーで不調?カフェインアレルギーかも』とか『カフェインアレルギーとは?症状と注意点』とか、そういった類の記事が無限に出てくるのだが、正確にはカフェインアレルギーというものは存在しないようである。病名をつけるなら食物不耐症というらしい。そういえば、エナジードリンクや抹茶なんかでも吐き気を覚えることはあったなと、指摘されて初めて気づいた。
清々しい気分だった。なるほど、病的なまでに嫌っていたコーヒーを、私は本能的に避けていたのだ。「嫌いだから」という甘えた理由ではなく、これからは堂々と、あの忌々しい付き合いのコーヒーを断ることができるのである。
「最近はカフェインレスのコーヒーなんかもありますから」
はあ、カフェインレスですか。気分良く自分の人生とコーヒーとの関係を断ち切ろうとするのを、医師の言葉と私の好奇心が邪魔をする。
ネットで“カフェインレスコーヒー”と検索するとすぐに様々な商品が出てきた。スターバックス・コーヒーにもあるではないか。エスプレッソショットのカスタマイズ“ディカフェ”というものが。そうと分かれば私の足は自然と最寄りのスターバックス・コーヒーの店舗へと向かうのだった。

コーヒーというものは、私が思っていたよりもはるかに便利だった。メニューを見て迷う時間が省ける。何も気にする必要がない。作業をしながら、考え事をしながら、ごく自然な動作の一部のようにコーヒーを飲む。何も妨げない。それから何度かスターバックス・コーヒーへ通うようになり、毎回決まってカフェインレスのコーヒーを注文した。そしてだんだん理解してきたことがある。店内でパソコンをぺしゃぺしゃやったり、何だかわからない本を読んだりしているそのほとんどの人々は、コーヒーが飲みたいがためにここにいるわけではないということだ。座って作業をするために、とりあえずコーヒーを注文する。コーヒー一杯で、気が済むまで自分の時間を過ごせる。“席料”のようなものである。結局、当初から思っていた“時間をつぶすための道具”であることに変わりはないのだが、しかし、道具というのはものごとを便利にする為のもので当たり前なのだ。散々舐めたことを言い放っていた癖に、ものすごいてのひら返しである。すみませんでした。気に入らないものすべてに内心で腹を立てていた醜い人間は、コーヒーを飲めるようになったことにより、視界が開け、固定観念にとらわれ続けることの馬鹿らしさを学んだ。
そして私はすっかり慣れた口調で、いつものように注文をするのだった。
スターバックス・ラテのホット、トールサイズで、ディカフェにしていただけますか」

しかし彼は

彼はiPhoneを使っている。私はAndroidしか使ったことがないどころか、Apple製品をまったく使ったことがないのだけれど、彼がiPhoneを使っているところを愛おしいと思う。彼が持っているのがAndroidではだめなのだ、理由はうまく言えないけれど。きっとなにかが噛み合わなくなってしまう。そしてiPhoneTwitterをしていることが愛おしい。ユーザ名のうしろに表示されている“Twitter for iPhone”という文字列がただ愛おしい。しかし彼は、Twitterアカウントを削除してしまった。

彼の腕時計は、文字盤に数字が描かれていない。私がそれを見て「数字がないとふと見たときに咄嗟に時刻がわからない」と言うと、彼は「いや、そんなことはない」と笑ったのだった。私が腕時計を見るふりをして、彼の手首のその皮膚や、手の甲の骨の形を、舐めるように見ていることに気付きもしていないんだろうな。しかし彼は、その腕時計をなくしてしまったそうだ。

仕事中、たまたま、あまりに暇な時間があり、彼の勤めている会社のビルをグーグルマップで検索した。そうか、ここか。ここで彼は今頃働いているのか。ビューモードを切り替えて実写で表示させた。駅前。高層ビル。なに、この業務用製氷皿みたいな窓。愛おしかった。しかし彼の勤務先は、ほどなくして別の場所に変わった。

やる気なし

新幹線で東京に向かっている途中、窓の外の知らない街をぼんやり眺めていた。数え切れないほどの(数える気になるものでもないが)家が建ち並んでいた。まったく意味不明だった。こんなにたくさんの人たちがこの世には存在していて、それぞれ何かしらの理由でここに家を建て、暮らしている。いつも自動車で法定速度を遵守しながらちびちびとした生活をしている自分が、いまはよく分からない速さで移動しながら、そんな数え切れない暮らしを眺めている。まったく意味不明だった。そして怖かった。せいぜい2時間程度の移動時間に目の当たりにした光景に過ぎないのだが、自らの存在の小ささを理解するには十分すぎた。なるほど、人がひとり死んだくらいでは世の中は何も変わらないわけだ。必死に生きていることが馬鹿みたいだった。でもなぜかみんな必死に生きているのだ。

平和なんだと思う

今すぐ死にたいというわけではないのだ。長生きをしたくない。この生活をあと50年とか、60年とか、続ける気がない。はっきりとしたゴールがどこにあるかもわからないのに、だらだらと続けていたくない。
朝は午前5時30分には起きる。犬の毛をブラシで梳かし、えさを与える。自分自身は朝食をとらないことのほうが多い。10分くらいで化粧をして、着替えたらさっさと仕事に行く。早起きは清々しいけれど、かと言って朝は時間がない。私は車で通勤している。家を出るのが5分遅れたらとんでもない渋滞に巻き込まれて到着が1時間遅れる。そんな街に住んでいる。私はこの街が大嫌いだ。しかし、いまの仕事は好きだ。自分の中で、仕事に関しては唯一誇りが持てる。毎日新しい発見があり、自分が成長していくのが感じられる。積み重ねてきた経験と、自分の持ってる最大限の知識を引っ張り出して取り掛かるとき、頭の中で何かが必死にぐるぐると回りだす音がきこえる気がする。全身の細胞がよろこぶ。とても気持ちの良い時間だ。休憩時や、たまにある少しの空き時間には先輩の気色の悪い自慢話にきゃぴきゃぴと相槌をうち、首がとれそうなほど頷いてなければならない。ただそれだけが不快ではあるが、その話について語ると永遠に愚痴が出てくるので、ここまでにしておく。いくら楽しいとはいえ、うまくいかないことなども多々あるのだが、いつも心地良い充足感に包まれながら仕事を終えて帰宅する。それからは少し勉強をしたり読書をしたりする。最近は日本史の勉強が楽しい。歴史は学生時代にはいちばん苦手な科目だったこともあり、今までほとんど触れてこなかったのだが、ついこの間、その深く刻まれ続けた苦手意識をいとも簡単に覆してくれた名著に出会えた。知るということは素晴らしく、知識は心を豊かにする。知識欲を抱き、それを満たすという行為について、それは自由であり、すべての人に平等であり、人が人らしく生きるための根本的な部分だと思う。私の仕事にも関係してくるのだが、人間生活を支える材料はこの世にうんざりするほど溢れかえっているが、それらをうまく扱える人間でありたいものだ。閑話休題。いつも夕食は簡単に済ませる。野菜と、何か肉を焼いたやつとか。この頃気づいたのだが、私は基本的に食に興味がないのかもしれない。さて、入浴を終えたら、お待ちかねの彼氏と電話をする時間だ。という妄想をしながら、ベッドでごろごろする。ゲームをしたり、ベッド上でノートパソコンを開いてYouTubeを見たりしてそのまま寝る。YouTuberの話し声を聞きながら寝落ちする。何もなければそのまま朝が来るが、眠れない夜というのはとにかく苦しいものだ。とりとめのない不安に襲われる。冒頭で挙げたような、終わりの見えない将来について考えてしまう。
長く続くものごとに対してあまり良い感情を持たない。楽しいことにはきっぱりと終わりがあるから楽しいのだと思う。今の暮らしには、まあ、かなり妥協すればそれなりに満足してはいるのだが、何か終了の目安のようなものがないと、計画の立て方もわからないし、休むべきタイミングも計りかねる。これから何十年も生き続けることを考えると、逆に息が続かなくなる。このようなどうしようもない精神的苦痛が、私の睡眠時間をどんどん奪っていく。だから寝る直前までできるだけ何も考えないで済むように、暗い部屋の中でうるさく光るディスプレイを眺めて頭を麻痺させる。(むしろ脳に悪影響らしいが。)3時とか4時まで眠れない日には、たとえその後わずかな眠りにつくことができたとしても、大抵情けない夢を見る。私は睡眠が苦痛で仕方ない。とにかくはやく朝が来ることを願う。毎日この繰り返し。はやく仕事に行って365日働きたい。

そして「また明日」と言う

最近よく車で洋楽を流す。恥ずかし気もなく断言すべきことではないけれど、英語はもちろん分からない。でも洋楽は好きだ。何を言ってるのかわからないところがいい。単純に歌のメロディーとか演奏を聴いて、好きだとか嫌いだとか言えるから。邦楽ではそうはいかないのだ。曲調が好みでも歌詞を聞いてうんざりすることが多いから。馬鹿でよかったと思う。あ、これは結婚式にMaroon 5が来て歌い出すやつ。あと何億回生まれ変われば、この曲のPVに出てくるひとたちのような人生を歩めるのだろうか。
深夜2時を過ぎ、Twitterのタイムラインにはいよいよ、両極端な人間たちがひしめき合う。まだ若く元気であるか、それとも、自身の抱く希死念慮と戦い続けているか、そんな両極端な人間たち。
冴えきった目を擦ると睫毛が4本抜けた。掻きむしった頭のてっぺんから血が流れ出す。冷たい毛布のどこが幸せなんだ。意味不明なゲームは友達と遊ぶやつ。自分ひとりが異質なものに思える。
私はこうやって思いついた文章を書くけれど、そもそも書く意味ってなんなんだ。ある小説家が言っていた。「個性ではない。人間味を出して」自分がひとりの人間として生きていたということを誰かに伝えるために。誰かたったひとりにでも、そこに存在していたのが私だとわかってもらえるといいけれど。
世界中のひとが私に「早く死ね」と言っている。統合失調症ではない。私も強くそう思うから。毎日寝る前には好きな人のことを考え、そして、死ぬことを考える。それなりに頑張って生きてきたけれど、何も結果を残せなかった。自分が生きるためだけに生きている。それって何か意味がある?

人間っていいな

風呂上がり、お気に入りのコロンを内腿に吹きかけてから、パジャマを拾い上げて身につける。パジャマをたたんだことがない。床か、あるいはベッドに、乱雑に落ちてる。私は一年中、襟のついた長袖の綿100%のパジャマを着て眠る。素肌(特に首周り)に綿の生地が触れていないとうまく寝付くことができない。理由ははっきりわからないが、体がそういうふうになっている。20年以上そうやって生きてきた。たまにホテルなどに泊まるたびに苦しい思いをしているのだ。パジャマを持参すれば済む話だが、何分、ムードというものがあるだろう。
「唸り声がうるさすぎて、とてもじゃないがもうお前と寝ることはできない」
○んでくれ。

部屋があまりに寒く(今朝の室温は3度だった)、チューブのリップクリームが固まって出てこなかった。出てこないどころではなく、カチカチだ。なんとなく、自分が死んで、その死体がていねいに布団に寝かされ、葬儀屋のひとが持ってきたドライアイスで保冷されるところを思い浮かべた。凍らされたら、体の中の脂肪とかこういうふうになっちゃうんだろうなと思った。使えないリップクリーム。なんの役にも立たない死体。人間の脂肪は4℃で凍るそうだ。

夜は暗い。暗いのは好きだ。自分がここにいることが浮き彫りになる。見えないものは見なくてよい。余計なものを見ずに、ただ自分の存在をよく感じ取ることができるようになる。しかし暗くて寒いのは、駄目だ。確かにそれは、吸い込んだ空気が肺を突き刺すような寒さだった。体中の皮膚が痛む。とにかく冬の夜は寂しいものだった。寂しさを消し去りたいわけではない。たとえばとなりに愛する人がいたとして、かといって寂しさは消えるかというと結局のところそうではないだろう。となりに誰がいてもいなくても、寂しいものは寂しい。私は限りなく貪欲な人間だ。

「貪欲に調べつくしましたね。良いレポートでした」
大学生の時にゼミの先生にそう褒められたことがあったのを思い出す。ありがとうございます。当時はそんな無難な返事をしたと思う。
そうなんです、貪欲なんです。好きなものは満足するまで食べたいのです。知りたいと思う気持ちも、寂しいと思う気持ちも、貪欲さが動かしている感情です。自分がこの先、生きていくことも、死ぬことも、うまく想像できません。あと何十年も生きるとか、明日死ぬかもしれないとか。もしくはそのどちらでもないかもしれない。
でも、先生、私は私のために生きていくことができるようになりました。

不幸で仕方ないよ

日々の生活の中で、“幸せな瞬間”というものを意識したことがあるだろうか。
私はベッドで毛布にくるまるとき、言い表せない喜びを感じる。ふかふかな毛布に肌が触れる瞬間の、ちょっとひんやりするところも好きだ。体温で徐々にあたたまってくると、この上ない幸福感に包まれる。あらゆる不快な感情とは無縁の感触。きょうも私はがんばりました。褒めてくれる人がとなりにいてくれたら最高だけど、それはまあ仕方がない。
あと最近は、湯船に浸かりながらアイスを食べるのにはまっている。こたつでみかんなんて比じゃないくらい至福のひとときを過ごせる。もう私は大人だから、こっそり風呂場にアイスを持ち込んでもママに怒られることもない。なんなら、ほんとは危ないからよくないらしいけど、徳利に注いだ日本酒を持ち込んだって、誰にも怒られない。生まれたままの無防備な姿で、誰にも邪魔されず、自分が自分のままでいられることの、なんと気持ちの良いことか。
それはそれとして。私はせいぜいこの程度の幸せのために毎日生きているし、これからも生きていくのだ、きっと。これ以上の幸せをはやく知りたい。はやく、これ以上の幸せのためにがんばらせてほしい。
焦りは視野を狭める。決断だけははやいけれど、たくさんある選択肢からことごとく見逃してしまう正答。目がすべる。まっすぐ前を見ていられない。頭がおかしくなっているのだろうか。いや、足元が不安定すぎるせいだ。砂でできてる。もういい、わかった。砂になりたい。砂になって、風が吹いたくらいで、か弱く、流されてしまいたい。ただすべてに従いたい。逆らうのに疲れた。それでいい。全部その通りにするから、何も選べないままでいいから、そっちで好きにやってほしい。考える時間をちゃんと作ってくれないなら話を振らないでほしい。待てないなら求めないでほしい。ところで、幸せっていったい何なんだ。
時間は何もかもをおおげさにする。貸したまま返ってこないお金の額が増える。高校生活が楽しかったような気がしてくる。過去に愛した人間が死ぬほど憎い。買ってから読んですらいない本を好きな本だと語ってしまう。私は親を捨てたことになっているらしい。私は生まれてからずっと不幸な気がする。
「若いのに偉いなあ」って言う大人達の気持ちが分かってきた。皮肉だ。心じゃ1ミリも偉いなんて思っていない。何も知らずにまっさらだった若さが、人間や、社会や、思想や、排気ガスとかで、どんどん濁っていくところを見て、密かに喜んでいるのだ。若さはそれだけで武器だとはよく言うが、私はそうは思わない。武器を持っているから強いのではない。何も持っていないからまわりに守られている。ひとりで大きくなったみたいな気で、自覚なく与えられる安心感に身を委ねて、若いから失敗だってするよね、なんでもできちゃう。若いのに偉いなあ。私は小学生に戻りたい。