やる気なし

新幹線で東京に向かっている途中、窓の外の知らない街をぼんやり眺めていた。数え切れないほどの(数える気になるものでもないが)家が建ち並んでいた。まったく意味不明だった。こんなにたくさんの人たちがこの世には存在していて、それぞれ何かしらの理由でここに家を建て、暮らしている。いつも自動車で法定速度を遵守しながらちびちびとした生活をしている自分が、いまはよく分からない速さで移動しながら、そんな数え切れない暮らしを眺めている。まったく意味不明だった。そして怖かった。せいぜい2時間程度の移動時間に目の当たりにした光景に過ぎないのだが、自らの存在の小ささを理解するには十分すぎた。なるほど、人がひとり死んだくらいでは世の中は何も変わらないわけだ。必死に生きていることが馬鹿みたいだった。でもなぜかみんな必死に生きているのだ。

平和なんだと思う

今すぐ死にたいというわけではないのだ。長生きをしたくない。この生活をあと50年とか、60年とか、続ける気がない。はっきりとしたゴールがどこにあるかもわからないのに、だらだらと続けていたくない。
朝は午前5時30分には起きる。犬の毛をブラシで梳かし、えさを与える。自分自身は朝食をとらないことのほうが多い。10分くらいで化粧をして、着替えたらさっさと仕事に行く。早起きは清々しいけれど、かと言って朝は時間がない。私は車で通勤している。家を出るのが5分遅れたらとんでもない渋滞に巻き込まれて到着が1時間遅れる。そんな街に住んでいる。私はこの街が大嫌いだ。しかし、いまの仕事は好きだ。自分の中で、仕事に関しては唯一誇りが持てる。毎日新しい発見があり、自分が成長していくのが感じられる。積み重ねてきた経験と、自分の持ってる最大限の知識を引っ張り出して取り掛かるとき、頭の中で何かが必死にぐるぐると回りだす音がきこえる気がする。全身の細胞がよろこぶ。とても気持ちの良い時間だ。休憩時や、たまにある少しの空き時間には先輩の気色の悪い自慢話にきゃぴきゃぴと相槌をうち、首がとれそうなほど頷いてなければならない。ただそれだけが不快ではあるが、その話について語ると永遠に愚痴が出てくるので、ここまでにしておく。いくら楽しいとはいえ、うまくいかないことなども多々あるのだが、いつも心地良い充足感に包まれながら仕事を終えて帰宅する。それからは少し勉強をしたり読書をしたりする。最近は日本史の勉強が楽しい。歴史は学生時代にはいちばん苦手な科目だったこともあり、今までほとんど触れてこなかったのだが、ついこの間、その深く刻まれ続けた苦手意識をいとも簡単に覆してくれた名著に出会えた。知るということは素晴らしく、知識は心を豊かにする。知識欲を抱き、それを満たすという行為について、それは自由であり、すべての人に平等であり、人が人らしく生きるための根本的な部分だと思う。私の仕事にも関係してくるのだが、人間生活を支える材料はこの世にうんざりするほど溢れかえっているが、それらをうまく扱える人間でありたいものだ。閑話休題。いつも夕食は簡単に済ませる。野菜と、何か肉を焼いたやつとか。この頃気づいたのだが、私は基本的に食に興味がないのかもしれない。さて、入浴を終えたら、お待ちかねの彼氏と電話をする時間だ。という妄想をしながら、ベッドでごろごろする。ゲームをしたり、ベッド上でノートパソコンを開いてYouTubeを見たりしてそのまま寝る。YouTuberの話し声を聞きながら寝落ちする。何もなければそのまま朝が来るが、眠れない夜というのはとにかく苦しいものだ。とりとめのない不安に襲われる。冒頭で挙げたような、終わりの見えない将来について考えてしまう。
長く続くものごとに対してあまり良い感情を持たない。楽しいことにはきっぱりと終わりがあるから楽しいのだと思う。今の暮らしには、まあ、かなり妥協すればそれなりに満足してはいるのだが、何か終了の目安のようなものがないと、計画の立て方もわからないし、休むべきタイミングも計りかねる。これから何十年も生き続けることを考えると、逆に息が続かなくなる。このようなどうしようもない精神的苦痛が、私の睡眠時間をどんどん奪っていく。だから寝る直前までできるだけ何も考えないで済むように、暗い部屋の中でうるさく光るディスプレイを眺めて頭を麻痺させる。(むしろ脳に悪影響らしいが。)3時とか4時まで眠れない日には、たとえその後わずかな眠りにつくことができたとしても、大抵情けない夢を見る。私は睡眠が苦痛で仕方ない。とにかくはやく朝が来ることを願う。毎日この繰り返し。はやく仕事に行って365日働きたい。

そして「また明日」と言う

最近よく車で洋楽を流す。恥ずかし気もなく断言すべきことではないけれど、英語はもちろん分からない。でも洋楽は好きだ。何を言ってるのかわからないところがいい。単純に歌のメロディーとか演奏を聴いて、好きだとか嫌いだとか言えるから。邦楽ではそうはいかないのだ。曲調が好みでも歌詞を聞いてうんざりすることが多いから。馬鹿でよかったと思う。あ、これは結婚式にMaroon 5が来て歌い出すやつ。あと何億回生まれ変われば、この曲のPVに出てくるひとたちのような人生を歩めるのだろうか。
深夜2時を過ぎ、Twitterのタイムラインにはいよいよ、両極端な人間たちがひしめき合う。まだ若く元気であるか、それとも、自身の抱く希死念慮と戦い続けているか、そんな両極端な人間たち。
冴えきった目を擦ると睫毛が4本抜けた。掻きむしった頭のてっぺんから血が流れ出す。冷たい毛布のどこが幸せなんだ。意味不明なゲームは友達と遊ぶやつ。自分ひとりが異質なものに思える。
私はこうやって思いついた文章を書くけれど、そもそも書く意味ってなんなんだ。ある小説家が言っていた。「個性ではない。人間味を出して」自分がひとりの人間として生きていたということを誰かに伝えるために。誰かたったひとりにでも、そこに存在していたのが私だとわかってもらえるといいけれど。
世界中のひとが私に「早く死ね」と言っている。統合失調症ではない。私も強くそう思うから。毎日寝る前には好きな人のことを考え、そして、死ぬことを考える。それなりに頑張って生きてきたけれど、何も結果を残せなかった。自分が生きるためだけに生きている。それって何か意味がある?

人間っていいな

風呂上がり、お気に入りのコロンを内腿に吹きかけてから、パジャマを拾い上げて身につける。パジャマをたたんだことがない。床か、あるいはベッドに、乱雑に落ちてる。私は一年中、襟のついた長袖の綿100%のパジャマを着て眠る。素肌(特に首周り)に綿の生地が触れていないとうまく寝付くことができない。理由ははっきりわからないが、体がそういうふうになっている。20年以上そうやって生きてきた。たまにホテルなどに泊まるたびに苦しい思いをしているのだ。パジャマを持参すれば済む話だが、何分、ムードというものがあるだろう。
「唸り声がうるさすぎて、とてもじゃないがもうお前と寝ることはできない」
○んでくれ。

部屋があまりに寒く(今朝の室温は3度だった)、チューブのリップクリームが固まって出てこなかった。出てこないどころではなく、カチカチだ。なんとなく、自分が死んで、その死体がていねいに布団に寝かされ、葬儀屋のひとが持ってきたドライアイスで保冷されるところを思い浮かべた。凍らされたら、体の中の脂肪とかこういうふうになっちゃうんだろうなと思った。使えないリップクリーム。なんの役にも立たない死体。人間の脂肪は4℃で凍るそうだ。

夜は暗い。暗いのは好きだ。自分がここにいることが浮き彫りになる。見えないものは見なくてよい。余計なものを見ずに、ただ自分の存在をよく感じ取ることができるようになる。しかし暗くて寒いのは、駄目だ。確かにそれは、吸い込んだ空気が肺を突き刺すような寒さだった。体中の皮膚が痛む。とにかく冬の夜は寂しいものだった。寂しさを消し去りたいわけではない。たとえばとなりに愛する人がいたとして、かといって寂しさは消えるかというと結局のところそうではないだろう。となりに誰がいてもいなくても、寂しいものは寂しい。私は限りなく貪欲な人間だ。

「貪欲に調べつくしましたね。良いレポートでした」
大学生の時にゼミの先生にそう褒められたことがあったのを思い出す。ありがとうございます。当時はそんな無難な返事をしたと思う。
そうなんです、貪欲なんです。好きなものは満足するまで食べたいのです。知りたいと思う気持ちも、寂しいと思う気持ちも、貪欲さが動かしている感情です。自分がこの先、生きていくことも、死ぬことも、うまく想像できません。あと何十年も生きるとか、明日死ぬかもしれないとか。もしくはそのどちらでもないかもしれない。
でも、先生、私は私のために生きていくことができるようになりました。

不幸で仕方ないよ

日々の生活の中で、“幸せな瞬間”というものを意識したことがあるだろうか。
私はベッドで毛布にくるまるとき、言い表せない喜びを感じる。ふかふかな毛布に肌が触れる瞬間の、ちょっとひんやりするところも好きだ。体温で徐々にあたたまってくると、この上ない幸福感に包まれる。あらゆる不快な感情とは無縁の感触。きょうも私はがんばりました。褒めてくれる人がとなりにいてくれたら最高だけど、それはまあ仕方がない。
あと最近は、湯船に浸かりながらアイスを食べるのにはまっている。こたつでみかんなんて比じゃないくらい至福のひとときを過ごせる。もう私は大人だから、こっそり風呂場にアイスを持ち込んでもママに怒られることもない。なんなら、ほんとは危ないからよくないらしいけど、徳利に注いだ日本酒を持ち込んだって、誰にも怒られない。生まれたままの無防備な姿で、誰にも邪魔されず、自分が自分のままでいられることの、なんと気持ちの良いことか。
それはそれとして。私はせいぜいこの程度の幸せのために毎日生きているし、これからも生きていくのだ、きっと。これ以上の幸せをはやく知りたい。はやく、これ以上の幸せのためにがんばらせてほしい。
焦りは視野を狭める。決断だけははやいけれど、たくさんある選択肢からことごとく見逃してしまう正答。目がすべる。まっすぐ前を見ていられない。頭がおかしくなっているのだろうか。いや、足元が不安定すぎるせいだ。砂でできてる。もういい、わかった。砂になりたい。砂になって、風が吹いたくらいで、か弱く、流されてしまいたい。ただすべてに従いたい。逆らうのに疲れた。それでいい。全部その通りにするから、何も選べないままでいいから、そっちで好きにやってほしい。考える時間をちゃんと作ってくれないなら話を振らないでほしい。待てないなら求めないでほしい。ところで、幸せっていったい何なんだ。
時間は何もかもをおおげさにする。貸したまま返ってこないお金の額が増える。高校生活が楽しかったような気がしてくる。過去に愛した人間が死ぬほど憎い。買ってから読んですらいない本を好きな本だと語ってしまう。私は親を捨てたことになっているらしい。私は生まれてからずっと不幸な気がする。
「若いのに偉いなあ」って言う大人達の気持ちが分かってきた。皮肉だ。心じゃ1ミリも偉いなんて思っていない。何も知らずにまっさらだった若さが、人間や、社会や、思想や、排気ガスとかで、どんどん濁っていくところを見て、密かに喜んでいるのだ。若さはそれだけで武器だとはよく言うが、私はそうは思わない。武器を持っているから強いのではない。何も持っていないからまわりに守られている。ひとりで大きくなったみたいな気で、自覚なく与えられる安心感に身を委ねて、若いから失敗だってするよね、なんでもできちゃう。若いのに偉いなあ。私は小学生に戻りたい。

姉妹関係

妹に本を買った。誕生日でもお祝いでもない。買い物のついでに本屋に寄って本を見ていたら、なんとなく、唐突に、妹が本を読んでいる姿が頭に浮かんだ。私は読書が好きだが、妹はとくにそういうわけではない。
買ったのは、700円程度の文庫本。眼鏡をかけた女の子が表紙をかざっている。10年くらい前の小説だ。読んだことはあるが、内容はぼんやりとしか覚えていない。
帰宅して、久しぶりに妹の部屋の前に立った。高校生の妹とは、一緒に住んでいるにもかかわらず、あまり顔を合わせることがない。妹は基本的に、学校へ行くとき、食事、風呂、トイレ以外は部屋にこもりきりである。私が仕事に行く時は妹はまだ寝ているし、仕事から帰ってくる時間にはすでに夕飯を食べ終え部屋に戻っている。生活リズムが微妙にずれているのだ。
待て、なんて声をかけたらいい。普段、自分から妹に話しかけることもなければ、妹のほうから話しかけてくることもない。我ながら非常にクールな姉妹関係だと思う。突然「やあ、本でも読まないか」なんて、気持ち悪がられるに決まっている。これでも数年前までは仲が良かったのだ。よくふたりでニコニコ動画を見て笑っていた。私の部屋で、パソコンに繋いだイヤホンを片耳ずつにして。懐かしい。できることなら戻りたい。
「おーい」
とりあえずドア越しに声をかけた。無反応。ドアをノックしながら続けて声をかける。
「おーい。何してる」
駄目だ、出てきてくれない。少々強引な気もするが、静かにドアを開けてみる。
と、偶然振り向いた妹と目が合ってしまった。妹はイヤホンをして音楽を聴きながら勉強していた。邪魔をしてしまったようだ。余談だが妹は高校での成績がかなり良いらしい。尊敬している。私は高校時代、数学で100点満点中3点を取ったことがあるというのに。
「あっ、えっと、ごめん」
私は何故か妹相手に挙動不審になってしまった。いや、だって、二人きりになるのが久しぶりすぎて。
「あの、あのさ、これ、いる?」
「………いる」
妹は思ったよりも素直に本を受け取ってくれた。突然勉強の邪魔をしにきた不気味な姉を不思議そうに一瞥し、また机に戻った。
「じゃあ、その、勉強頑張って」
私がそう言ってそそくさと部屋から出てドアを閉めようとすると、妹はつぶやいた。
「ありがとう」
私は顔が熱くなってしまった。なんだろう、死ぬほど照れくさい。妹と目も合わさず、何も言わずにドアを閉めてしまった。
よかった。たとえ一度も読まれることがなくても、ブックオフで売られようとも、捨てられようとも、いいのだ。とにかく、妹に本が渡せてよかった。私が無理矢理押し付けただけで、あんまり意味のない行為だったかもしれない。けれども、妹の「ありがとう」のひとことで、私は得も言われぬ安堵感に包まれた。感謝の言葉が欲しかったわけでもないし、本来の目的とは違うけれど、妹が、ちゃんとありがとうと言えることに安心した。本当のところは迷惑だったのかもしれないが、とりあえず姉に対して気を使ってくれた妹を誇りに思った。

なら私はお前と過ごした日々は時間の無駄だったと死ぬまで言い続ける

雪が溶けたらたくさん遊びに行こう。買ったばかりの車を走らせて、遠くまでドライブするんだ。前にテレビでやってた喫茶店に行こう。ついでに海も見たい。やりたいことが多い。時間がいくらあっても足りない。まあ、その前に雪合戦でもしようか。
そう思っているうちに夏が終わっていた。
仕事に新生活にと、なりふり構わず必死に過ごす時期も過ぎ、近頃は少し落ち着いてきた。ぼーっとする時間が増えてきてよく昔のことを思い出す。
小学生のときの休み時間のこと。私に“不幸の猫”とあだ名をつけたクラスメイト。中学生の頃、3年間文通をしていた友達。高校生になってハマった音楽のこと。初めて付き合った人。口の周りに付いていた抹茶ラテのあと。大学でやってたバンド。私だけ呼ばれなかったお泊り会。初めてたばこを吸ったとき。就活。就職。初任給。住んだ街。もう会えない人。
誰かがふとつぶやいた言葉。
ある人に「過去のことを考えるのは時間の無駄」と言われたことがある。私は何も言い返さなかったけど、心の中では静かに怒りを覚えていた。勝手なことを言うな。
思い出すのは、もちろん、楽しかった出来事ばかりではない。悔しい思いも失敗したこともつらくて苦しい経験も、数え切れないほどたくさんある。でもそのぜんぶが、大事な思い出であることには変わりはない。思い出は必ずしも綺麗でなければならないわけではない。
誰にだって忘れたいことはある。しかし、そういうことこそ、ほんとうは忘れてはいけないことなのでは、と思う。人間は新しく情報を記憶することはできても、それを削除することはできない。意図的に忘れるという機能は備わっていないのだ。まるで自分の身体が「忘れるな」と言っているかのようだ。
過去を思い出にできるかどうか。つまり受け止めなければならないのだ。そのためには度胸が必要である。つらいことをつらいままで終わらせてはいけない。過去を否定してはいけない。過去がなければ今もないし、未来が生まれることもない。今を生きるために、過去は必須なのである。つらいことを乗り越えて生きる自分を褒めるべきなのだ。あんなに苦しい思いをしていたあの頃に比べれば、たいていのことはどうってことないと思える。
さて、はたして本当にそうなのだろうか。
もしかして、今よりも過去のほうがよっぽどましなのでは。
途端に、過去のどんな出来事より、今のほうがはるかにつらい気がしてくる。

最近よく、“人それぞれ”という言葉を意識する。人それぞれ、ものごとの優先度はちがう。好きなひとにも、嫌いなひとにも、どんなに大切なひとにも、ぜんぜん関係のないひとにも、それぞれにいちばん大事なものがあるし、いちばんに守らなければならないものがある。私たちは人それぞれの違いを認め合うことはできるけれど、違うということはつまり、同じではないということ。そんなことは当たり前だと分かるのだけれど、私はそれが悲しかったし、悔しかった。当たり前で、誰も悪くない事実を示す言葉なのに、あまりに寂しくて、冷たくて、残酷だと思う。この世には、誰も悪くないのに“人それぞれ”なせいで駄目になることが多すぎる。

髪が濡れたままで寝るのが好きだ。朝起きて乾ききらなかった髪を触ると安心する。抗っている感じがする。髪をいたわる成分を売りにするシャンプーのCMを鼻で笑う。全部嘘。ただドライヤーで乾かすのが面倒なだけだ。