なら私はお前と過ごした日々は時間の無駄だったと死ぬまで言い続ける

雪が溶けたらたくさん遊びに行こう。買ったばかりの車を走らせて、遠くまでドライブするんだ。前にテレビでやってた喫茶店に行こう。ついでに海も見たい。やりたいことが多い。時間がいくらあっても足りない。まあ、その前に雪合戦でもしようか。
そう思っているうちに夏が終わっていた。
仕事に新生活にと、なりふり構わず必死に過ごす時期も過ぎ、近頃は少し落ち着いてきた。ぼーっとする時間が増えてきてよく昔のことを思い出す。
小学生のときの休み時間のこと。私に“不幸の猫”とあだ名をつけたクラスメイト。中学生の頃、3年間文通をしていた友達。高校生になってハマった音楽のこと。初めて付き合った人。口の周りに付いていた抹茶ラテのあと。大学でやってたバンド。私だけ呼ばれなかったお泊り会。初めてたばこを吸ったとき。就活。就職。初任給。住んだ街。もう会えない人。
誰かがふとつぶやいた言葉。
ある人に「過去のことを考えるのは時間の無駄」と言われたことがある。私は何も言い返さなかったけど、心の中では静かに怒りを覚えていた。勝手なことを言うな。
思い出すのは、もちろん、楽しかった出来事ばかりではない。悔しい思いも失敗したこともつらくて苦しい経験も、数え切れないほどたくさんある。でもそのぜんぶが、大事な思い出であることには変わりはない。思い出は必ずしも綺麗でなければならないわけではない。
誰にだって忘れたいことはある。しかし、そういうことこそ、ほんとうは忘れてはいけないことなのでは、と思う。人間は新しく情報を記憶することはできても、それを削除することはできない。意図的に忘れるという機能は備わっていないのだ。まるで自分の身体が「忘れるな」と言っているかのようだ。
過去を思い出にできるかどうか。つまり受け止めなければならないのだ。そのためには度胸が必要である。つらいことをつらいままで終わらせてはいけない。過去を否定してはいけない。過去がなければ今もないし、未来が生まれることもない。今を生きるために、過去は必須なのである。つらいことを乗り越えて生きる自分を褒めるべきなのだ。あんなに苦しい思いをしていたあの頃に比べれば、たいていのことはどうってことないと思える。
さて、はたして本当にそうなのだろうか。
もしかして、今よりも過去のほうがよっぽどましなのでは。
途端に、過去のどんな出来事より、今のほうがはるかにつらい気がしてくる。

最近よく、“人それぞれ”という言葉を意識する。人それぞれ、ものごとの優先度はちがう。好きなひとにも、嫌いなひとにも、どんなに大切なひとにも、ぜんぜん関係のないひとにも、それぞれにいちばん大事なものがあるし、いちばんに守らなければならないものがある。私たちは人それぞれの違いを認め合うことはできるけれど、違うということはつまり、同じではないということ。そんなことは当たり前だと分かるのだけれど、私はそれが悲しかったし、悔しかった。当たり前で、誰も悪くない事実を示す言葉なのに、あまりに寂しくて、冷たくて、残酷だと思う。この世には、誰も悪くないのに“人それぞれ”なせいで駄目になることが多すぎる。

髪が濡れたままで寝るのが好きだ。朝起きて乾ききらなかった髪を触ると安心する。抗っている感じがする。髪をいたわる成分を売りにするシャンプーのCMを鼻で笑う。全部嘘。ただドライヤーで乾かすのが面倒なだけだ。