そして「また明日」と言う

最近よく車で洋楽を流す。恥ずかし気もなく断言すべきことではないけれど、英語はもちろん分からない。でも洋楽は好きだ。何を言ってるのかわからないところがいい。単純に歌のメロディーとか演奏を聴いて、好きだとか嫌いだとか言えるから。邦楽ではそうはいかないのだ。曲調が好みでも歌詞を聞いてうんざりすることが多いから。馬鹿でよかったと思う。あ、これは結婚式にMaroon 5が来て歌い出すやつ。あと何億回生まれ変われば、この曲のPVに出てくるひとたちのような人生を歩めるのだろうか。
深夜2時を過ぎ、Twitterのタイムラインにはいよいよ、両極端な人間たちがひしめき合う。まだ若く元気であるか、それとも、自身の抱く希死念慮と戦い続けているか、そんな両極端な人間たち。
冴えきった目を擦ると睫毛が4本抜けた。掻きむしった頭のてっぺんから血が流れ出す。冷たい毛布のどこが幸せなんだ。意味不明なゲームは友達と遊ぶやつ。自分ひとりが異質なものに思える。
私はこうやって思いついた文章を書くけれど、そもそも書く意味ってなんなんだ。ある小説家が言っていた。「個性ではない。人間味を出して」自分がひとりの人間として生きていたということを誰かに伝えるために。誰かたったひとりにでも、そこに存在していたのが私だとわかってもらえるといいけれど。
世界中のひとが私に「早く死ね」と言っている。統合失調症ではない。私も強くそう思うから。毎日寝る前には好きな人のことを考え、そして、死ぬことを考える。それなりに頑張って生きてきたけれど、何も結果を残せなかった。自分が生きるためだけに生きている。それって何か意味がある?