潮時

約束に遅刻するほど化粧に時間をかけるくせに、雑に呼び出されて、また汗だくのままファミレスに向かう。
ああこの人の記憶のなかのわたしは、仕事終わりでぐちゃぐちゃの顔ばかりなんだろうなと思ったら情けなくて涙がにじんできた。
お腹がすいているふりをしてわざと急いでパスタを食べた。
そもそもわたしの顔なんて人の記憶に残るほどのものでもないか。
なにも言われないからなにも言わないでいた。
朝帰りするたびに増える安い化粧品が、まるでわたしのほんとうの価値みたいに思えて納得した。
口の中のやけどがひりひりと痛むのを感じる。
わたしは傷ついていることに気づいた。
清潔な部屋では一睡もできなかった。
一年じゅう出しっぱなしの毛布に包まれて、安心して昼日中まで眠った。
聞いたことのない歌が聞こえてきて目が覚めた。
そんなもんだ、とつぶやいた。
知っている曲が一曲増えた。
昨日のわたしとの違いなんてそんなもんだ。

恋人を散歩に誘って海まで歩いた。
季夏とはいえ西日がじわじわと肌を焼く。
つまらない奴だと思われたくなくて無理してはしゃいでみせた。
不機嫌な頬を汗がつたって泣いているみたいだった。
見てよ夏の雲が、と言いかけて、あんなに憎んだ小樽の空を思い出した。
案外許せている自分に驚く。
思い出したくないと思っていることほど忘れられない。
もう忘れてたよ、悔しかったこと。
ぬるくなったカルピスを飲み干す。
恋人が投げた貝殻が夕波に消えていった。