新世界

私はすぐに人を信じてしまうと自分で思っていたけれど、信じたいだけだったことに最近気がついた。ほんとうはこれっぽっちも人のことを信じてなんかいなかったのだ。信じきれなくて自分で勝手にあれこれ考える。そうであるに違いない。そのはずだ。きっとそう。無理矢理思い込もうとしている。“絶対”という言葉を比較的信じていたつもりだが、“絶対”などないと言う人のこともわかる気がしてきた。人を信じたいという意識の中で無意識に嘘を探し続け、必死にそれを打ち消そうとしていた。嘘だと思いながら、嘘じゃないと思いたい。相手が大切な人であるほどその思いは強まっていった。恋人とか。恋人の前で私は小学生になる。小学生になった私の前にいる恋人も小学生になるところが好きだ。寂しいと言うと恋人がいるくせにと怒られる。普段つい寂しいとか孤独だとかつぶやいてしまうけれど、まったくの孤独というわけではない。話し相手がいないわけではない。家族もいるし、少ないしたまにしか会えないけれど友人もいる。ルール違反だと聞いたことがあるが、それでも私は寂しいアピールをしたい。決してひとりで生きているわけではないけれど、つねにどこにも馴染むことができない感覚に打ちひしがれている。いや、他人と関わりながら生きていくことを諦めていないからそう感じるのかもしれない。馬鹿にされてしまうから本当は言い訳などしたくないけれど、弱音を吐くのはそんなに悪いことなのか。どうも私がそちらへ行くことを拒む障害物があるように思う。それが目に見えないのが厄介で、傍から見れば私が何もない場所であほみたいに佇んでいるだけなのだ。この世界では私だけが挙動不審なのだ。世界とは何だ。
世界とは頭の中で思い描いたり作り上げたりした、これはこうあるべきとか、ああなりたいとかこうしたいとか、そういった類の感情ひとつひとつだと私は思っている。人間ひとりひとりにそれぞれの世界があり、さらに、それはひとりひとつではない。膨大な数の世界がこの世にはある。考えることは人間にとって重要な行為である。しかし、考えているだけでは、時間とともに考えていたことすら忘れてしまい、やがてその世界は消えてしまうだろう。一体いくつの生まれるはずだった世界が、誰にも知られることなく失われていったのか。誰もその数を知る者はいないし、その数を知る術もない。ところで、自分のことは自分で分かっているとしても、どうして他人がその世界を認識できるだろうか。できないのだ。存在しないものを認識することはできない。21世紀ではいまだに他人の頭の中を覗くことはできない。
何かを考えている頭の中には、無限の可能性を邪魔するものがなにひとつない。そこにあるのは自由であることの素晴らしさである。あるいは、じめじめとした暗い洞窟で、存在しない出口を探し続け苦しんでいるふりをすることもある。これもある意味自由だ。はじめから答えを出す気などない。自分が作った世界は、良くても悪くても、ぬるくてとても心地良いものであると決まっている。私は今までほとんどずっと、自分の世界に閉じこもりながら、この世界のことは自分だけが分かっていればいいと思っていた。そして自ら世界を閉ざしていたせいで、いつのまにか私と人との間に分厚い壁を作った。子供の頃から、どうせそうだからと自分から折れて、黙って自己完結させる癖がついていたと思う。この間は、私があまりに意思表示をしないから人を困らせた。(これをもしあなたが読んでいたとして、あれは私が悪いわけじゃないと言うのかもしれないが、明らかに私のせいであることは自覚していることをここに記しておく。)私に必要なのは主張することだった。さすがにもう自分のことは自分で解決しなければならない。寂しいことになっている言い訳はできるだけ減らしたい。そろそろ強がるのをやめて人と関わりあいたい気持ちに素直にならなければならない。好きな小説の、失敗を恐れて行動しないよりも行動して失敗したほうが何倍もためになるというような意味の一文を思い出した。結局それが他人に通用しないとしても、消えてしまうのなら結果は同じことだ。生まれないものを誰かに伝えることはできないのだ。忘れてしまうくらいなら、言葉にしておきたいと考えた。ただし、私には口がないから声に出すことはできない。文字は便利だ。疑問に思うのだが、人はぺらぺらとよく喋るが、自分が喋ったことを永遠に忘れないようにする方法が文字以外にあるのだろうか。初めから文字を使えばいいのに。
私の世界をすべて正しく理解し得る人間は存在しない。また、誰かの世界をまるごと私のものにすることもできない。きょうここに文字を使って言葉として生まれた私の世界が真実なのか嘘なのか、もしわかる人がいれば教えてほしい。