葛西臨海水族園

夏になるとNさんのことを思い出す。Nさんと初めて会ったのは4年前の東京駅。ちょうど、東京メトロ丸ノ内線池袋方面の終電が発車した頃だった。
NさんとはLINEのID交換掲示板で知り合い、やりとりをしているうちに会ってみようかということになった。私にとって初めてのオフ会だった。
20時に新幹線乗り場付近で待ち合わせをしていたけれど、21時を過ぎた頃に、「仕事が長引いてるからもう少し待ってて」とNさんから電話があった。すでに1時間以上待っていたが、私はNさんの声を聞いて安心しきっていた。そして結果的には初めて人を4時間半も待つこととなった。その間は何もすることがなく退屈ではあったけれど、決して苦痛ではなかった。Nさんに会うのがとても楽しみだった。
ひとりで新幹線に乗って東京に来たのは初めてだった。待っている間はトイレで念入りに化粧を直したり、新幹線乗り場で缶ビールを開け宴会を始める集団を黙って眺めているなどしていた。
その後何度かNさんとLINEをやりとりして、待ち合わせ場所はメトロ丸ノ内線の改札前になった。終電が発車してしまうと、Nさんが息を切らしながら私の前に現れた。
私はその日、一番かわいいと思う服を着て、髪の毛を巻いて、初めてつけまつ毛をつけた。その日までのNさんとのやりとりの中で、私はさんざん自分はブスで容姿に自信がないと嘆いていた。けれどNさんは私を発見して開口一番に、「かわいいじゃん」と言ってくれたのだった。私は嬉しいような恥ずかしいような気持ちでいっぱいになり、まともにNさんの顔を見れなかった。
「ごめん、終電出ちゃったね」
「ぜんぜん大丈夫です」
私は4時間半も待ったことなんて一瞬で忘れてぶりっ子をした。Nさんが私を迎えに来てくれた。それだけでじゅうぶんだった。Nさんは何度も「ごめんね」と言いながら私の頭を撫でてくれ、さりげなく私の鞄を持ってくれた。
「よし、タクろう」
Nさんはそう言うと私の手を引いて歩きだした。ちなみに“タクる”という言葉を私はこのとき初めて知った。妙に大人っぽくて、憧れるフレーズだった。
タクシーを拾って、ふたりで後部座席に乗り込んだ。Nさんが行き先を告げ、私たちは夜の東京を走り出す。向かうのは葛西のビジネスホテルだった。
しばらくして、隣に座るNさんからLINEがきた。
『足を開け』
私はNさんの顔を横目で見たが、Nさんはスマホの画面を見つめたままだった。
『早く』
私は運転手の目を気にしながら、Nさんの言うとおりに少し足を開いた。羞恥心よりも、とにかくNさんに気に入られたかった。Nさんはさらに続ける。私はそれに従った。
『スカートめくってパンツ見せろ』
『早く』
『いい子』
そんなことをしてる間にタクシーはホテルに到着した。ホテルにチェックインする時、宿泊者それぞれのサインが必要だった。Nさんは“田中太郎”と書いていた。Nさんの本名を私は知らないけれど、偽名であることには違いないだろう。私はとっさに偽名が思い浮かばず、そこに本名を記入した。
部屋に入るとすぐにNさんにシャワーを浴びるよう促された。私は自分の今の状況やこれから起こることに対して、浮かれているのか期待してるのか、もしくは恐怖心からなのか、とにかくドキドキしながら、丁寧にからだを洗った。できるだけ冷静を装って風呂場を出ると、Nさんはすでに寝ていた。私はNさんの脱ぎ散らかしたスーツをハンガーに掛け、Nさんとは別のベッドに入り眠りについた。
目が覚めたのは8時頃だっただろうか。Nさんは身支度を終わらせていて、タブレット端末で海外のバラエティー番組を観ていた。あとで聞いた話だが、英語の勉強のために観ていたらしい。起き上がってNさんのそばに座ると、Nさんはぼさぼさの私の髪を指で弄んだ。
「先に寝てごめん」
Nさんは財布から2万円を取り出し私に差し出した。私は寝起きのぼーっとした意識の中で、外国人の笑い声を聞いていた。Nさんが私の手に握らせた紙幣が、あまりに非現実的なこの瞬間が現実であるということをくっきりと描写していた。
出掛けることになり、どこか行きたいところはないかと尋ねられ、私は水族館に行きたいと答えた。私は当時、葛西に水族館があることを知らなかった。
「え、ディズニーランドとかじゃなくていいの?」
Nさんはあまりに近場に出掛けることと安上がりなことに対しておかしそうに笑っていた。
ホテルをチェックアウトして葛西駅まで歩いた。バスを待っている間に、Nさんが飲み物を買ってくれた。私は結構のどが渇いていてそれを一瞬で飲み干すと「一口くらいよこせよ」と、Nさんはげんこつで私の頭を突くふりをした。
「ごめんなさい。つい」
私はなんだか面白くなって笑ってしまった。Nさんも笑っていた。楽しかった。
バスに乗り、10分程で葛西臨海水族園に到着した。館内に入ってすぐ、Nさんが私に顔を近づけ耳打ちをしてきた。
「トイレでパンツ脱いできて」
私はその日ワンピースを着ていた。下着を脱ぐとかなり涼しくて落ち着かなかった。Nさんのもとへ戻ると、ワンピース越しにお尻を触られた。びっくりしたけれど他の人に見られることはなかった。
「ほんとに脱いだんだ。いい子」
私はNさんに褒められるのが嬉しかった。Nさんは手を繋いでくれた。
その後はおそらく、てきとうに魚を見て回ったのだが、私はほとんどなにも覚えていない。羞恥からか、定かではないけれど、トイレを出てから水族館を出るまでの記憶が抜け落ちている。こんなにも記憶に残らない水族館は初めてだった。(葛西臨海水族園を非難しているわけではまったくない。)その時はNさんの言うことのほうが大事だったけれど、今になって思うともったいないことをした。ただ、Nさんは楽しそうだった。
水族館を出るとNさんは「お寿司食べたくなったなぁ」とつぶやいた。少し遠いが、歩いて回転寿司店に向かった。その間にNさんと話したこともなにひとつ覚えていない。まったく会話をしなかったのかもしれないが。ちょうどお昼時で寿司店は混んでいた。順番待ちの間にNさんからLINEが来た。
『パンツ履いてきていいよ』
Nさんはわさびが食べられない私を笑わなかった。サーモンばかり頼んだ私を笑わなかった。Nさんははまちばかり頼んでいた。
寿司店を出て葛西駅まで歩き、電車に乗って東京駅に向かった。私はその日、家に帰らなければならなかった。帰りの新幹線の時間まで、駅の近くのカラオケで過ごした。Nさんは洋楽を歌っていた。聞いたことのない歌だった。私は英語がわからないから、とりあえず曲に合わせて体を揺らしていた。私は歌えるのが歌謡曲しかなくて何曲か歌ったが、Nさんはちゃんと盛り上げてくれた。
「水族館、ちゃんと見れなかったでしょ」
Nさんが選曲する端末を操作しながら話し始めた。「ふざけすぎた、ごめん」と続ける。
「たしかになんにも覚えてないですけど」
私は苦笑いしながら答えた。
「でも、よかったです」
「何が?」
「Nさんが楽しんでいてくれて」
私がそう言うと、Nさんは「どういことだよ」と笑った。
「私なんかと会ってもつまんないだろうなってずっと思ってたから」
「いや………もう少し自信持てないの?」
Nさんは呆れたような顔をした。
「俺が寝てる間にスーツ掛けててくれたでしょ。気遣いできるんだから。ちゃんとお前のこと見てる人いるよ」
「………」
私は何も言えなかった。
「また行こうよ、葛西臨海水族園

Nさんは東京駅の新幹線乗り場まで送ってくれた。私は今朝もらった2万円をNさんに返そうとしたのだが、「いいから、新幹線代ってことで」と、受け取ってもらえなかった。
「向こう着いたらLINEします」
「うん、気をつけて」
手を振って改札を抜けると、まるで次の日も普通に会えるみたいに、一度も振り向かなかった。

Nさんとはその後自然と連絡を取らなくなり、会うことはなかった。ふたたび葛西臨海水族園に行くこともなかった。しかし、何も覚えていない水族館の思い出は、ある意味強く印象に残っているのであった。